
【米西戦争】
1898年スペイン軍によるアメリカ戦艦の沈没をきっかけに米西戦争が勃発しました。スペイン領であったグアム島もアメリカ海軍の砲撃を受け、同年アメリカによって占領されることになります。大敗を喫したスペインは多くの植民地を失い、同年パリ条約によってグアムもアメリカの領地となりました。アメリカ海軍による統治は農業、保健衛生、教育、土地管理、税制、公共事業などに数々の変革や改善をもたらしました。グアム島はアメリカ海軍の石炭補給および通信連絡の拠点として使用されていましたが、1941年、真珠湾攻撃後間もなく侵攻してきた日本軍の手に落ちることになるのです。
【日本占領時代】
1941年、日本は真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発を機にグアムを占領します。その後31ヶ月間にわたった日本の占領時代にグアム島民は日本の生活習慣を強要されることになりました。日本軍はグアム島を「大宮島(偉大なる神のいる島)」と、ハガニア(アガニア)は「明石」と改名されました。この日本軍占領時代を、チャモロ語では「日本の時代」を意味する「テイエイポン・チャパネス」と呼んでいます。
日本軍は歴代の統治者と同様に、島民に日本語を使用することを強制しましたが、チャモロ人がアメリカに対して抱き続けていた忠誠心から、日本語が使えたチャモロ人はほんのひと握りだったと言われています。またチャモロ人の住居の自由は保証され、住みたい場所に住むことができました。

防空壕跡
旧日本兵がチャモロ人の使役労働者に彫らせたもといわれており、第二次世界大戦中に倉庫や防空壕として利用されたと考えられている。
ラッテストーン公園内にあります>>

平和慰霊記念公園
ジーゴから北東にかけては、太平洋戦争時、日米の激戦地となったところ。旧日本軍兵士の霊を祀る、高さ15メートルの慰霊塔があります。
平和慰霊記念公園>>
【アメリカ時代への回帰】
アメリカ軍がマリアナ諸島に向かって反撃を強めるに従い、チャモロ人に対する日本人の態度は日毎に厳しくなっていきました。島民たちは強制労働をさせられ、島の東部にあるキャンプに集められます。この意図はわかっていませんが、結果として、この移動が大多数のチャモロ人の命をアメリカ軍の艦砲射撃から救うことになりました。 1944年、アメリカ軍がグアム島に上陸。数千人ものチャモロ人、米兵、日本兵の命を奪った3週間に及ぶ激戦の末、グアム島は平静を取り戻し、再びアメリカの統治下に入りました。 1950年にアメリカの自治属領(準州)となり、今日までアメリカ軍の太平洋戦略上の基地として活用されています。
1967年、パンアメリカン航空が日本から航空路の運航を開始し、これによりグアムに近代的な観光産業がもたらされました、以来、グアムでは経済の多様化と拡大が続いています。軍需、観光、および関連産業(建設、小売、銀行、金融サービスなど)の拡大に加え、経済改革もまた島民の雇用に重要な役割を果たすとともに、グアムという世界市民的な社会が期待するビジネスの選択肢も広がりつつあります。グアムの豊かな歴史的遺産こそが、グアム島の今後の発展の拠り所とすべき枠組みとなっているのです。

太平洋戦争国立歴史公園
アサン海岸沿いにある公園で、1944年7月21日にアメリカが上陸した地点になります。
太平洋戦争国立歴史公園>>

横井ケーブ
元日本兵の横井庄一さんが28年間潜伏生活を送っていたといわれる洞穴の一つを再現したものです。
横井ケーブ>>

自由の女神像
ハガニア湾に突き出した人工の半島の先端に建つ自由の女神像は、ニューヨークの女神像と同様に自由と独立を表しています。
自由の女神像>>









