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歴史

グアムは西太平洋のミクロネシアと呼ばれる地域に位置する諸島最大の島。そこには多様な要素が複雑に混じり合った独自の文化史があります。
地理的にも、アジアと北米大陸の間で経済・軍事戦略上重要な位置を占めていることで有名です。

けれども、島にすばらしい歴史があり、たくましく生きてきた人々が暮らしていることはあまり知られていません。アメリカ合衆国に属しながらも、グアムの文化や風俗には、300年以上続いたスペイン統治時代の香りが色濃く残されています。かつて、日本による統治も行われていたグアムの歴史をひもときます。

 

1. 紀元前〜1500年 古代チャモロ時代

グアムの先住民、チャモロ人の起源

マリアナ諸島には数千年前から人が暮らしています。
考古学的資料から、この諸島は4,000年以上前、おそらくは東南アジアの島から渡来したインドマラヤ系民族が最初に居住した場所のひとつだったと推定されます。

マリアナ諸島の島々には、同じ文化と言語を持つ人々が次々に定住していったと考えられています。これらの人々がのちにチャモロ人と呼ばれるようになりました。

 

ラッテストーン

宗教的な意味合いを持つとも、高床式建物の土台とも言われていますが、その実体については、まだ解明されていません。

古代のチャモロ人は漁師としても職人としても優れ、自分たちの生活環境に適した独特の住居やカヌーを造り、また複雑な織物や手の込んだ陶器の製作に も通じていました。また強固な母系社会を形成しており、女性の権力と特権によってチャモロ文化の大部分、言語・音楽・舞踊・伝統などが守り伝えられてきたのです。


 

ラッテ時代と先ラッテ時代

古代チャモロ時代は「ラッテストーン」と呼ばれる石柱が作られていた「ラッテ期(9~15)世紀」と、それ以前の「先ラッテ時代」に分けられます。 
ラッテストーンはハリギと呼ばれる高さ1.5~2メートルの石柱の上に、タサと呼ばれる頭石(キャップストーン)がのっているのが特徴で、こけし状の形をしています。

宗教的な意味合いを持つとも、高床式建物の土台とも言われていますが、その実体については、まだ解明されていません。

 

シレナ像

シレナという少女が人魚になった伝説です。サン・アントニオ橋の隣にこの像はあります。

チャモロビレッジ

毎週水曜の夜に縁日のように盛り上がるナイトマーケットです。地元の人も多く集まり、本場のチャモロ文化に触れられるのも魅力です。

 

2. 1500年〜スペイン統治の時代

マゼラン上陸

グアム島が初めてヨーロッパと接したのは1521年3月6日とされています。それは世界一周の航海の途にあったマゼランがグアム島を発見し、ウマタックに上陸したことがきっかけでした。

マゼランはスペイン国王の命による世界一周の航海中、3隻の船団を修理するために3日間、グアム島に立ち寄ったのです。そこで新鮮な果物や野菜や水を島から調達したマゼランはその対価として鉄を島民に与えました。

まだ新石器時代のような暮らしをしていたチャモロ人に とって、鉄は大きな値打ちを持っていたのでした。

 

スペイン広場内にあるチョコレートハウスは、スペイン総督夫人が来客をチョコレートドリンクでもてなしたことから名付けられました。


スペイン統治の始まり

マゼランがグアム島を発見した後、1565年スペインのコンキスタドール(征服者)であるミゲル・ロペス・デ・レガスピがグアム島に到達し、スペイ ン国王がグアム島およびその他のマリアナ諸島の領有権を正式に宣言しました。

この時333年にも続くスペインの統治時代が始まったのです。

 

ソレダット砦

スペイン統治時代、交易船を海賊から守るために築かれた砦の跡で、改修が行われ、復元されました。


キリスト教の布教

その時から100年余り後の1668年、神父ディエゴ・ルイス・デ・サンビトレス率いるイエズス会の宣教師団が、ヨーロッパ文明、つまりキリスト教や交易などをこの地に確立するためにやって来ました。

それまでグアム島は、航路の中継地としての領土でしたが、これを機に本格的にスペインに征服されることになるのです。宣教師たちはチャモロ人に「メイズ」(トウモロコシ)の栽培を教えたり、家畜を持ちこみ、その飼育法や皮のなめし方などを教えたりしたほか、衣服も西洋風に変えさせました。

キリスト教が定着すると、村々ではカトリック教会が活動の中心となったのです。

 

聖母マリア大聖堂

スペイン広場の東に建つ、白亜の美しい大聖堂。グアムで初めて建てられた由緒あるカトリック教会です。 その昔、ウマタック湾に漂流したと伝わる聖母マリア像が安置されている。

アプガン砦

スペイン・チャモロ戦争においてチャモロの襲来に対してスペイン軍が拠点にした砦です。

 

スペイン・チャモロ戦争

近隣の島々へも広がっていったカトリック教ですが、「先祖崇拝」を強く禁止するなど、カトリックの教えがチャモロの伝統的価値観や習慣と相反することがわかると、徐々にカトリックの教えに反発するようになり、1668年スペイン・チャモロ戦争へ発展していきます。

スペインはカトリック教に反抗的な全ての村を焼き払い、酋長を厳しい罰を与えました。そして1695年チャモロ人が降伏した時、10万人いたといわれるチャモロ人が5,000人以下に減って しまったのです。

 

フローレス大司教像

フローレス大司教像はチャモロ人として初めて大司教となりグアムでのカトリック教の布教に努めました。

恋人岬の伝説

チャモロの美しい娘が、恋人と永遠の愛を誓い、髪を結びあってこの岬から身を投げた、という悲恋伝説です。

大酋長キプハ

17世紀のハガニアの酋長で、チャモロ人として初めてカトリック教会の建立を許可しました。 


3. 1898年〜アメリカ時代の到来 

Guam Mural米西戦争

1898年スペイン軍によるアメリカ戦艦の沈没をきっかけに米西戦争が勃発しました。スペイン領であったグアム島もアメリカ海軍の砲撃を受け、同年アメリカによって占領されることになります。

大敗を喫したスペインは多くの植民地を失い、同年パリ条約によってグアムもアメリカの領地となりました。アメ リカ海軍による統治は農業、保健衛生、教育、土地管理、税制、公共事業などに数々の変革や改善をもたらしました。

グアム島はアメリカ海軍の石炭補給および通信連絡の拠点として使用されていましたが、1941年、真珠湾攻撃後間もなく侵攻してきた日本軍の手に落ちることになるのです。

 

日本占領時代

1941年、日本は真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発を機にグアムを占領します。グアムは日本軍の占領下にある唯一の旧米国領となり、第二次世界大戦中も他に類を見ない立場に置かれました。

その後31ヶ月間にわたった日本の占領時代にグアム島民は日本の生活習慣を強要されることになりました。日本軍はグアム島を「大宮島」と、首都ハガニアは「明石」と改名されました。この日本軍占領時代を、チャモロ語では「日本の時代」を意味する「テイエイポン・チャパネス」と 呼んでいます。

日本軍は歴代の統治者と同様に、島民に日本語を使用することを強制しましたが、チャモロ人がアメリカに対して抱き続けていた忠誠心から、日本語が使えたチャモロ人はほんのひと握りだったと言われています。またチャモロ人の住居の自由は保証され、住みたい場所に住むことができました。

 

防空壕跡

旧日本兵がチャモロ人の使役労働者に彫らせたもといわれており、第二次世界大戦中に倉庫や防空壕として利用されたと考えられている。

平和慰霊記念公園

ジーゴから北東にかけては、太平洋戦争時、日米の激戦地となったところ。旧日本軍兵士の霊を祀る、高さ15メートルの慰霊塔があります。

 

アメリカ時代への回帰

アメリカ軍がマリアナ諸島に向かって反撃を強めるに従い、チャモロ人に対する日本人の態度は日毎に厳しくなっていきました。島民たちは強制労働をさせられ、島の東部にあるキャンプに集められます。

この意図はわかっていませんが、結果として、この移動が大多数のチャモロ人の命をアメリカ軍の艦砲射撃から救うことになりました。1944年、アメリカ軍がグアム島に上陸。

数千人ものチャモロ人、米兵、日本兵の命を奪った3週間に及ぶ激戦の末、グアム島は平静を取り戻し、再びアメリ カの統治下に入りました。1950年にアメリカの自治属領(準州)となり、今日までアメリカ軍の太平洋戦略上の基地として活用されています。

 

近年

1967年、パンアメリカン航空が日本から航空路の運航を開始し、これによりグアムに近代的な観光産業がもたらされました、以来、グアムでは経済の 多様化と拡大が続いています。

軍需、観光、および関連産業(建設、小売、銀行、金融サービスなど)の拡大に加え、経済改革もまた島民の雇用に重要な役割を 果たすとともに、グアムという世界市民的な社会が期待するビジネスの選択肢も広がりつつあります。

グアムの豊かな歴史的遺産こそが、グアム島の今後の発展の拠り所とすべき枠組みとなっているのです。

 

太平洋戦争国立歴史公園

アサン海岸沿いにある公園で、1944年7月21日にアメリカが上陸した地点になります。

横井ケーブ

元日本兵の横井庄一さんが28年間潜伏生活を送っていたといわれる洞穴の一つを再現したものです。

自由の女神像

ハガニア湾に突き出した人工の半島の先端に建つ自由の女神像は、ニューヨークの女神像と同様に自由と独立を表しています。