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ジョーニャ
Yona
カトリック教会:アッシジの聖フランシス教会
フィエスタの時期:10月最初の週末
地区の概要
ジョーニャはグアム東南で最初にできた地区。境界線はパゴ湾の南岸からタロフォフォ地区イパンにあるジェフズパイレーツコーブ北側の橋まで、全長6マイル(約10キロメートル)におよびます。西は17号線(クロスアイランド・ロード)に沿って、4号線(チャランカントン・タシ)から海軍弾薬庫の展望台に近いターザンフォールまで広がります。
加えてプランタットとマネンゴン渓谷周辺からチャランパゴのロンフィット橋まで管轄するジョーニャは、グアム最大の行政区の1つ。地区内はバザガーデンズ、ウィンドワードヒルズ, イリグ、マネンゴン、キャンプウィテック、プランタット、トライアングル、セントラル・ジョーニャ、タガチャン、アズナモの10区域に分かれています。
歴史
ジョーニャの歴史は古代にまでさかのぼります。10地区のひとつプランタットは1521年のマゼラン来島以前に非常に栄えていた内陸の地域で、たくさんのラッテストーンと古代の埋葬地が発見されています。埋葬地はイリグ湾岸4号線のイリグ橋から約100フィート(約30メートル)北の地点でも見つかりました。17号線沿いのバザガーデンズ開発中に発見されたラッテストーンは、残念ながら破壊されることに。古代チャモロ人の村落は、海岸沿いのタガチャン・ビーチパークにもあったとされています。
古代から第二次大戦後まで、ジョーニャは肥沃な土地と良質な水に恵まれた豊かな農地で、魚の豊富な漁場でもありました。住民は点在する牧場に暮らしていましたが、戦前の木造建築は全体でわずか2戸のみ。残りは草葺きでした。地区初となる公立学校は1915年に開設されています。
戦時中、ジョーニャは比較的平穏な農業地帯のままでしたが、それも日本軍に占領される最後の数週間までのことでした。
1944年7月12日、日本軍司令部は島の各地で住民を移動させました。大日本帝国軍は米軍が迫りつつあることを知っていたのです。病人までわが家を追われて収容所から収容所へ行軍させられ、最後にジョーニャのマネンゴン渓谷にある最大の収容キャンプへたどり着きました。
終戦間近には、島全体の人口の75%にあたる約1万8,000人がマネンゴン渓谷で暮らし、マネンゴン川の水で体や衣服を洗い、料理をしていました。材木とココナツの葉で小屋が建てられたものの、仮の住まいは豪雨に襲われて水没。2平方マイル(約5平方キロメートル)の渓谷にはさらに人口が流入し、状況が悪化するなか多くが栄養不良や病気で亡くなりました。
マネンゴンの男たちは毎日、さまざまな作業場へ連行され、一部は日本兵に殺害されました。一方、アメリカ軍による空と海からの爆撃で命を落とした住民も。多くの犠牲者は川岸に埋められましたが、一部はのちに掘り起こされ、きちんと埋葬されました。