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タロフォフォ

Talofofo

守護聖人:聖ミカエル(サンミゲル)

フィエスタの時期:9月

 

地区の概要

ティト・マンタノナ前村長はタロフォフォを「神の地(God’s Country)」と呼びました。この愛称は多くの住民に親しまれ、至るところに掲げられています。こぢんまりした地区の中心には東西南北にのびる十字路。タロフォフォで道をたずねたときに出発点の目印になるのが、経済活動の要でもあるこの交差点です。3つの角には商店、北側には聖ミカエル教会、村長のオフィス、そして住宅があります。住宅の多くは、郊外らしい雰囲気を漂わせています。

交差点の東にはオンワードタロフォフォゴルフクラブがあり、そのまま進むと17号線(通称クロスアイランド・ロード)とぶつかります。

西はさらに住宅地が続き、タロフォフォ小学校、運動場、そしてタロフォフォ・ジムへ。

南にはセブンスデー・アドベンティスト教会とノートルダム高校。坂を下るとイパンと呼ばれるエリアやタロフォフォ湾、そしてタロフォフォの古代洞窟へつながります。

イパンは、高台の中心地区から下った海岸沿いのエリア。静かなビーチ、まばらな民家、ガソリンスタンドがほぼすべてですが、人気のバーベキュースポット、イパン・ビーチパークもあります。北の境界線に近いジェフズパイレーツコーブにはぜひ立ち寄りたいところ。リラックスした雰囲気のバー&グリルや小さなみやげもの屋があり、屋外スペースではアート・クラフトの展示会、コンサートなどが開かれています。

南の境界線にあたるウガム川(タロフォフォ川と合流)はタロフォフォ湾に流れこみます。ただし公園施設は湾の南側にあるので、いちばん賑やかな一画は実際にはイナラハン地区の一部になっています。

 

歴史

スペイン統治前の住民のほとんどはタロフォフォ川とウガム川流域の集落で暮らしていました。タロフォフォの洞窟でも遺物は発見されていますが、洞窟は台風の季節の避難所だったと考えられています。

イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サンビトレス神父がタロフォフォ湾近くのピグプグ集落に教会を建てるよう命じたのは、1672年のこと。この教会は新しいキリスト教共同体の中心になりました。

この集落の規模や経済力は強大ではありませんでしたが、タロフォフォ湾は後世に残る上陸地点になりました。まず1788年には、鉄を求めて交易遠征に乗りだしたカロリン諸島ラモトレク島の大集団がカヌーで到着。100年前にスペイン・チャモロ戦争で太平洋の島々の交易がストップして以来、初めての交易団でした(スペイン・チャモロ戦争では、カトリック教化に抵抗するチャモロ族が反乱を繰り広げました)。

数カ月後、交易団は鉄と貿易品をたずさえて帰路につきましたが、途中で嵐に襲われたのか、結局故郷に戻ることはなかったそうです。スペイン系チャモロ人の軍人ドン・ルイス・デ・トレスは1804年、ウォレアイ島まで出向き、交易団はスペインに殺されたのではないことをカロリン諸島の住民に説明。これで年1回のグアムに向けた交易遠征が再開されました。

1941年12月10日には、ジョーニャ地区のイリグ湾を目指した日本軍部隊が、あやまってタロフォフォ湾に上陸。日本軍のグアム侵攻における東岸の上陸地点になりました。

1972年1月24日には、タロフォフォ川付近にて旧日本兵の横井庄一さんが発見されました。グアムへの派遣から、28年ぶりの事でした。