ジーゴ村にあるグアム平和慰霊公苑で第四回マリヤ観音フェスティバル(合同慰霊祭)が10月15日(金)に快晴の青空のもとで行われました。
多くの若者が命を落としたあの日も、ジャングルを逃げ迷ったあの日も、砲弾が雨のように降ったあの日も、美しい青空に太陽が輝いていたことでしょう。

1944年7月21日のアメリカ軍の上陸から8月11日の司令官(小畑中将軍司令官)の自決までの3週間に約1万人の日本軍が戦死、最終的には1万9,135人にのぼる日本軍の尊い命がグアムの大地で失われたのです。これにアメリカ軍の戦死者1,862人、グアム島民1,123人を加えると22,120人が失われました。

この美しい南の島で多くの若者が無念の死を遂げたという事実に、戦争の恐ろしさ無惨さを再認識させられ、心が凍る思いがします。

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アプロン大司教が御霊に祈りを捧げます。

このジーゴ村のグアム平和慰霊公苑は、1965年南太平洋戦没者慰霊団がグアムを訪れた際、カルボ神父と面会し日本人戦没者の慰霊公苑の建設計画で合意したことから建設が実現しました。

カルボ神父はただちにジョンソン米大統領に親書を送り大統領からの正式な許可を取得、慰霊公苑建設が現実のものとなったのです。
戦争によって多くの犠牲を強いられた島民の理解の上に建設された意義深い場所でもあるのです。
また、グアム平和慰霊公苑が位置するこの場所は日本軍玉砕の地でもあります。
アメリカ軍の上陸から各地で戦闘が繰り返され、北へ北へとアメリカ軍が迫り、ジーゴがグアムでの組織的戦闘の最後の舞台となったのです。

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合掌のモニュメントの前には、
日本、アメリカの国旗、グアムの旗が並びます。


マリヤ観音フェスティバルは、毎年仏教とキリスト教の両方で式典が行われ、アプロン大司教をはじめ全国グアム島戦友会の方々、日本国総領事、ジーゴ村村長、グアム在住邦人、旅行者が参列して行われます。

今年も例年同様、国境、人種、宗教を超えて営まれた心温まる慰霊祭となりました。
ただひとつ、全国グアム島戦友会の方々の参列が年々減り、今回はお一人となってしまいました。生還者の多くがこの世を去り、また多くが病院や自宅で療養中ということで、長い歳月が経ったことを感じずにはいられません。そして、グアムで暮らす日本人として、大きな宿題を課せられたような気がします。

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平和慰霊記念公園では今年から来年にかけて
施設整備が予定されています。


グアムには先住民であるチャモロ人と結婚した日本人女性が多く暮らしています。わたしもその1人で、多くの日本人女性がファミリーに温かく迎えられ、チャモロのファミリーにとけ込んで幸せに暮らしているようです。

個人差はあるとは思いますが、グアムの人は元来おおらかな気性でもの事に寛容です。戦時中に幼少期を過ごしたチャモロ人の高齢者は皆、日本統治時代に居住を制限され、日本語教育を受けています。にもかかわらず、日本人の嫁を迎え入れ、若い世代の暮らし方を尊重し見守ってくれているようです。アメリカ領土で唯一、日本軍による占領を体験したグアム。戦後にチャモロ人、アメリカ人、日本人の友好が温められたグアムだからこそできる和平への誓いが世界へと届くことを願います。


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アプロン大司教の心温まるお言葉は
サンティアゴ神父によって日本語に訳されました。


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川崎大師貫首の法要も営まれました。


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全国グアム島戦友会から唯一の参列となった生還者は
グアムで命を落とした同士のことを一日も忘れることはなかったこと、
そして次の世代に慰霊を続けてもらえるよう
涙ながらに語り、その姿に参列者全員が心を打たれました。


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式典の最後に参列者全員が白い菊の花を献花しました。
グアム平和慰霊公苑は毎日朝8時から夕方6時まで自由に参拝できます。


グアム平和慰霊公苑(南太平洋戦没者慰霊協会)にいて詳しくは
http://www.spmaguam.org/